私が最初に東京から移住したのは田辺市中辺路町で、今は新宮市熊野川町です。
中辺路町は熊野古道中辺路があるから中辺路町だと思います。和歌山県民にとって「中辺路」と言うのは田辺から本宮大社までが中辺路という認識の人が多いと思います。
田辺の中でも滝尻王子からが熊野古道で、田辺から滝尻は熊野街道なのかもしれません。
「古道」という概念は古い道、という意味です。
使われてない、とまでは行かないけど、今はメインの道が別にあって、それより古い道が旧道、旧道より古い道が「古道」なんだと思います。
先日、「大峯奥駈道は熊野古道ではない!」と怒ってらっしゃる方がいらっしゃいましたが、恐らく大峯奥駈道にはその前提の旧道、メインの道にあたるものがないからだと思います。
中辺路には今の国道311号線の他に旧国道があり、熊野古道となっている道はその前に使われていた道です。
(奥駈道は今は使われてない意味合いの「古道」ではない!と怒ってらっしゃいましたが、熊野古道中辺路も迂回してますが、今も使われている道です)
本宮大社から那智大社に行く小雲取越と大雲取越にも、先ほどの中辺路のような現在メインになっている国道、旧道にあたるものがありません。
今はそれぞれの集落を行き来する道は熊野川沿いを利用していてやはり国道311号線になりますが、本宮大社から那智大社に行く、あるいは小口から本宮大社、那智大社に行くときは熊野川沿いの国道を利用する事になります。
小口から那智大社へ新宮を通らないで車で行くことは可能ですが3時間以上かかる酷道です。
熊野古道という呼び名を発想されたのは以上の理由で恐らく中辺路をイメージして作られた呼称だと思います。
道の呼称というのは、その時の用途に応じてできたものだと考えています。
中辺路の場合、恐らく最初、院政の平安時代はただ単に「くまのみち」か「熊野路」と呼んでいたと思います。
その内京都から通う道が二つに分かれます。
伊勢の国を通る伊勢路と紀伊国を通る紀伊路です。
そこから紀伊路に山の中を通る中辺路と海沿いを大回りする大辺路に分かれます。
高野山から本宮大社に向かう道を小辺路、と呼ぶのもこの辺からだと思います。
江戸時代、徳川体制は西国との通商や参勤交代の必要性から五街道を整備します。
この時、熊野も熊野街道と呼ばれるようになったと思います。
この熊野街道と同じように名前がついている小栗街道というものがあります。
これは湯の峰温泉の小栗判官伝説が如何に広まっていたかを現すのですが、江戸時代の熊野古道はそれ以前の巡礼と違い、伊勢参りの延長という意味合いが大きかったのだと思います。
多くの人が行き交ったと思いますが、熊野三山を巡礼するのではなく、伊勢参りの後、青岸渡寺から西国三十三箇所霊場の巡礼という人が多かったのではないかと思うのです。
それは本宮大社近くの三軒茶屋にある道標が示しています。「みぎ かうやさん ひだり きみゐでら」と書いています。
その西国三十三箇所霊場では一番寺は青岸渡寺ですが、二番は紀三井寺です。
本宮大社は飛ばされてしまっています。お寺ではないからです。中世では本宮大社も仏教徒が参詣していたのですが、江戸期には仏教的性格を失ってしまっていたのでしょう。
代わりに本宮大社を支えていたのが湯の峰温泉です。四月には湯登神事が行われるのは、本宮大社と湯の峰温泉との関係の深さを物語っています。恐らく小栗判官伝説をプロモーションに湯治に訪れたお客が本宮大社にも願掛けしたのではないかと想像します。
小栗街道はそういう小栗判官伝説を背景にした本宮・湯の峰温泉への巡礼街道だったと思います。
世界遺産に登録されている「紀伊山地の霊場と参詣道」というのはとても気を使った名称です。
「霊場」なら神社、仏閣どちらも包括することができます。伊勢神宮は霊場と言えると思いますが、世界遺産にはなっていません。世界遺産になったら式年遷宮は難しいかもしれないですね。
