熊野古道のなかで中辺路というのは、いわばメインの道という扱いです。
田辺から本宮大社が中辺路ですが、本宮大社から那智大社への道も中辺路の扱いになってます。
その中で本宮大社と那智大社を結ぶ中間地点が小口集落になります。
小口が熊野古道の道としては比較的新しく、
だいたい室町時代から江戸時代からだという記述を見たことがあります。
その前から通る人はあったと思いますし、その中には巡礼者もいたはずですが、少なかったようです。
もちろん、道の成立は歴史を調べるのは難しいですが、一般的に全時代を通じて本宮大社から那智大社に行くのは、熊野川を下り、速玉大社を経て那智大社に行くのが本来のルートだったようです。
それは大雲取越の険しさだといいます。円座石の先は胴切坂という名前が付くほどの勾配のきつい坂があり、延々と約700mほど登ります。
もう一つは、おそらく治安が悪かったのだと思います。夜盗の類が多かったとか。
鎌倉時代も、例えば近露、野中には信州から源氏の氏族が古道の要所を抑えるために派遣されていますが、どうもそういった記録が小口にはなさそうです。
小口から那智大社へ、また妙法山阿弥陀寺に至る最後の区間をかけぬけ道と呼ばれていて、
尼僧もここをかけぬけたそうです。
治安が悪い道をかけぬける尼僧、決死の覚悟だったのかもしれません。
江戸時代になると中辺路の多くの道が石畳に普請されています。
当時は日本全国、特に5街道を中心に道のインフラが急速に整備されます。
室町時代のあと、戦乱の世の中が土木技術を革新したんだと思います。
そこからは歩きやすい道になり、治安も良くなったのと、平民の経済力が良くなったことで旅行意欲が高まり、
特に観音信仰やお伊勢参りなどの巡礼ブームにつながることで小口村も茶屋が整備されたようです。
本宮大社から小口集落までの道を小雲取越、小口から那智大社までが大雲取越ですが、その昔は妙法山阿弥陀寺へ向かう「亡者と出会う道」などと呼ばれます。
霧深い道なので、幻覚を見やすいですが、熊野川を下る道に比べて人も少なかったのだと思います。
伝承では、亡くなった人がシキミの枝を1本持って阿弥陀寺の鐘を撞くため歩くのだそうです。
なので、個人的には滝尻から本宮大社までの道より少し暗く、仏教的な色彩が強く感じるように思いました。
浄という名前を選んだのも、そんな背景です。
