東西冷戦とは、第二次世界大戦後に急速に力をつけたアメリカと西欧諸国に対し東欧およびソビエト連邦との勢力争いです。
英語でもCold Warとなっていますが、要するに双方が原爆を所有しているため直接に戦火を交えず経済、安全保障などあらゆる面で対立し勢力争いを起こしました。
中国の国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、これらを見ると大戦後、実際に戦争においてはアメリカ及び西側諸国よりよりソ連の東側諸国の方が勝ちを治めていると思います。
にも拘わらず、最終的に冷戦を終結した時はソビエト連邦の崩壊という東側の革命によって終結したと言えます。
私は、冷戦の終結に大きく影響したのは経済発展であり、たとえ話で「ソ連兵はアフガニスタンで敵方が持っているウォークマンに憧れて戦意を失った」などと言われています。
東側陣営は西側陣営の経済発展が生み出した最新技術や洗練された音楽に強烈に憧れました。
その中でも経済に関して一番躍進したのは日本だったんだと思います。
冷戦の末期、日本は世界第二位の経済大国となったわけですから。
そして先ほどのウォークマンを始め西側に大量の特許と技術革新をもたらしたのは日本です。
ベルリンの壁の崩壊のニュースは、小さかった私も本当に突然起こった歴史的な出来事だと感じました。
ペレストロイカと共にゴルバチョフ書記長が来日し、日本でもゴルビーブームがありました。
当時のソ連の改革者である首長は日本で「可愛い」と人気になり、人形が発売されたこともあるんです。
その後ソビエトは崩壊し、冷戦が終結しました。
茶の間で様々な感慨を持ちながら、社会人ながら学生と一緒に学生運動に参加していた当時を振り返り、「当時の我々は、本当に日本の将来を考えて運動していたんだよ」と言っていたのを覚えています。亡き父が、今のロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしていたら、どんなことを思うんだろうと思いながらニュースを観ています。
昭和一桁生まれの亡父は、小学校の頃に戦争がはじまり、思春期のさなかに終戦を迎えました。
明治生まれの祖父は鹿児島出身で薩長閥の名残なのか蘭学を学んだようで、オランダ語を喋れるため戦争中はドイツ軍の通訳だったそうです。ドイツの将校が来日し、日本のゼロ戦を作る上で技術提供するのを祖父が通訳していたと聞いています。
終戦後は進駐してきた米軍の通訳をさせられました。通訳せよとの命令に対し「うちはオランダ語の通訳です」と返答したところ、「そんなことはどうでもいい!とにかく来い!」と強引に進駐軍の通訳させられました。
なので私の家は戦争中も戦後も通訳として比較的好待遇な生活をしていたのだと想像できます。
戦後も家には家族分のベットがあったため、配達に来た郵便屋さんが「ここは病院ですか?」と聞かれたという逸話があります。
戦争中と戦後と、世の中が逆転したのに何の運命かうまく生き延びている家の事情を、亡き父はどう思ったのか知りません。でも周りからはかなり僻まれたのではないかと想像できます。
そんな亡父が学生運動、つまり社会主義に昏倒したのはそんなも背景があったのかと思います。
もう一つ、やはりアメリカが嫌いだったんだと思います。
人種差別の激しい戦後、思春期の少年には進駐軍が闊歩し、亡父の父である祖父がそれに付き従って慣れない英語を駆使する姿は、あまりいい印象を与えない気がします。
その進駐軍がアメリカに還る時、彼らが日本で飼っていた犬を通訳だった祖父が家に引き取ります。
名前は「ジマ」。アメリカ人にとってイオウジマという名前は何かインスピレーションを与えたらしく、進駐時に拾った子犬2匹に「イオウ」と「ジマ」という名前を与えたそうです。
そのうち1匹を祖父が引き取り、家族で飼いました。
後年、私も家族で犬を飼うことになるのですが、この逸話を聞いてその犬の名前も「ジマ」になりました。ややこしいですが、先代の祖父が引き取った「ジマ」は和犬(たしか柴犬)ですが進駐軍がしつけたため英語でしか命令を聞かず、2代目「ジマ」はイギリスのシェルティにも関わらず育てたのが日本なので日本語しかわからないという逆転現象を起こしていました。
父はその2代目「ジマ」に、酔っぱらって「ジマ、Sit down!」と命令するのです。つまり犬とコミュニケーションを取るために英語を覚えたのです。
その英語が功を奏したのか、社会人になると当時書店では珍しい洋書の担当になります。
戦時中、英語は敵国語だったため、英語教育が禁止されていました。だから戦後、オランダ語の通訳まで英語の通訳として駆り出されたのです。
それは父が社会人になった時でも英語が喋れるのは貴重な存在でした。
当時の書店は(たぶん父の勤めていた書店が特殊なんですが)知識層のサロンの役割を果たしていました。専門書について書店員もそれなりの専門知識を持って大学の研究者などに紹介し販売する役目を負っていたのです。
その父から見た大学の教授及び先生たちは、いわゆるインテリゲンチャと呼ばれる人たちでした。
呼び方からして偏っていますが、インテリ層のロシア語だと思います。
日本の高度成長期が始まる直前の1960年前後というのは、国共内戦で共産党が中華人民共和国を建国し、朝鮮戦争では釜山以外はほとんど北朝鮮という所まで韓国が追い詰められ、という時代です。
共産党がとても強かったんだと思います。
私の予測ですが、情報を持っている知識層は社会・共産主義に傾倒し、闇市や朝鮮戦争で物資の需給関係が強かった商売人、中産階級はアメリカに近かったので資本主義陣営に分かれたんだと思います。
それが1960年代、70年代の安保闘争に繋がったのではないかと思うのです。
そして、これは日本の中での冷戦だったのではないかと思います。
つまり、アメリカもソ連も、それぞれのイデオロギーに共感する陣営に対し、国内の政治活動のあらゆる面で支援をしてきたのだと思います。
父は一介の書店員だったにも関わらず、海外渡航の難しい時期に、ウラジオストクからシベリア鉄道に乗って(当時まだシベリアに抑留されていた人もいたはずですが)モスクワを経由してオランダに駐在する祖父(祖父は戦後オランダに赴任していました)へ会いに行ったことがあります。
それも友達を二人連れて。
労働組合長だった父は政治にもかかわりがあったようで、私の誕生時命名されたの色紙には美濃部知事(当時の東京都知事)の秘書が寄せ書きで「目指せ革新の星!」などと書いてます。
お金の問題もそうですがソ連を経由するヨーロッパ旅行には社会主義陣営の支援があったのではないかと思うのです。
労働組合のもっと偉い人(もっと大きな組織の長を務めている人)になると、ソ連の国賓としてソビエトに招かれていました。
冷戦というのは、イデオロギーをバックに全世界のいたるところで、まさに様々な形で勢力争いをしていた戦争だったのです。
