私はマーク・ザッカーバーグに(見た目が)似ていると言われたことがあります。
だからMetaを書くわけではなくて、「メタ」というのは1階層上のみたいな意味のようです。
次元が違うという感じでしょうか。
私は子供の頃、書店員だった父の影響で人より本の出会いが多かったように思います。
好奇心旺盛な息子にちょっと背伸びした本を買い与えてくれました。
その中の一つ衝撃だったのが「ゲーデル、エッシャー、バッハ、あるいは不思議な環」という本です。
僕はこの本によっていろいろな事を根本から考え直されることになりました。
子どもの頃からこういった論理の話が好きだったので、人に議論を吹っ掛けられると
今でも必要以上に真面目に応えてしまい、「屁理屈をいうやつだ」と白い目で見られることもしばしばります。
本の解説をするほど私もちゃんと理解しているのか、かなり難しい本です。
でもこの本を通して、「物事には前提となるものがあって、人はその前提に縛られて考え方が狭くなってしまっている」という事に気づきました。
詳しくはこの本を読んで頂くしかないのですが、例えば「私は男である」という主張には、
「人間は大きく分けて男性と女性がいる」という前提に立って「私は男である」と主張しているわけです。
しかし、今は多様性の時代です。ジェンダーにはいろいろな属性があるという時代なのです。
そういう中で「私は男である」は少し不完全な主張になります。
多様性の時代には「私はヘテロでノーマルな男性である」と書くとより分かりやすい主張になります。
これは、私と同年代もしくは年上の人からすると「なんという屁理屈だ」と言うかもしれません。
しかし、LGBTQの考え方をしっかり多様性の中で受け入れるという事は、その属性までしっかり答えるのが今の時代に多様性を受け入れる態度なのではないでしょうか。
さて、熊野で宿をやっていると、同じように前提が違うのだという事を、まざまざと感じさせられることがあります。
なんの前提が違うのかというと、外国人は日本語を、日本の習慣を理解していないという事です。
一見、当たり前ですが、実際外国人と接することで色々なことが見えてきます。
私がやっている宿は自宅を改装した形で営業する、いわゆる民泊のような宿です。
設置されている家電はすべて日本人仕様ですので、外国の方は使うときに英語のキャプションをつけていないとボタンの位置がわかりません。
日本人は「2F」と書いてあれば2階だと思いますが、外国の人は「2nd Floor」でないと通じません。
外国人が日本の家で靴を脱がなければならないことは知識として知っていますが、どこで脱ぐべきなのか知りません。多くの骸国人は玄関に入る前に靴を脱ごうとします。(土間が分かりません)
日本の家では水道の水が飲めることが当たり前で、飲用でない水栓にのみ「飲めません」と書いてあるけど、外国では水道の水が飲めないのが前提なので、「どの水道が飲める水栓ですか?」とよく聞かれます。「すべての水栓(タップウオーター)は飲めます」というとびっくりされます。
そうなんです。外国人が日本で宿泊するという事は、小さなカルチャーショックの連続なのです。
これは日本の宿泊施設にも言えると思います。
宿泊施設というのは、それぞれメインの顧客によって業態が違ってきます。
分かりやすく言うとリゾートホテルとビジネスホテルのような感じです。
観光地のホテルというのは、季節によって大きく集客が違ってきます。
冬のスキー場は、夏は閑散期で営業していないところもあれば、夏は夏の観光需要を掘り起こしている所もあります。
