江戸時代に隆盛を誇った「お伊勢参り」。東京出身の私でも、和歌山に縁ができる前から知っていました。あの「東海道中膝栗毛」は弥次さん喜多さんのお伊勢参りの道中記ですもんね。
東海道五十三次を巡って伊勢神宮をお参りする。53次の宿には「飯盛り女」という遊女がいて、お酌だけでなく夜の相手もしてくれる。そりゃ歩きますよね。
御師はこの伊勢神宮にお参りする人をあらゆる面でサポートするのが仕事でした。
御師は神職の下級職に当たるそうです。全国を回り、伊勢参りの宣伝活動をします。
その道中行きたい人がいるけど中々いけないんだ。と聞いたらすぐに飛んで行って、伊勢へ行けるようにサポートします。
お金が中々貯められないんだ。と聞けば伊勢講という寄合を作り、行きたい人たちがお金を出し合って持ち回りで行けるようにします。保険見たいですよね。ファイナンシャルマネージャーです。
旅先での不安を解消します。装束はどんなのがいいか、旅先で必要なものは何か、笠には「おかげ」という文字が入っている場合、60年に一度の「おかげ参り」というイベントがある。この時は奉公先(バイト先)を抜け出して伊勢参りに行くことができる。とか。
一番の問題は治安です。人気のない所を歩くことも多く、盗賊などの被害も怖いです。
これがすごいんですが、旅先のお金(路銀)は御師が後で払ってくれるシステムらしいです。
旅人が茶屋に寄ったり、旅籠で世話になると、「つけといて」の一言で済みます。
つけは後ほど御師が伊勢講で集めたお金で払うんです。
ではどうやって道中のお金を帳面につけておくんでしょう。身分証もありません。盗賊が持っていくときは、文字通り「身ぐるみはがされる」わけですので手形もありません。
それで旅先では口上を述べるんですね。
「わたくし産まれも育ちも葛飾柴又~」から始まるフーテンの寅さんの口上というのは、こうして身分の怪しいものじゃあござんせん。と相手を信用させる身分証の代わりだったという事です。
さすが渡世人。
この「講」というシステム、独特ですよね。集落でお金を集めて、持ち回りで伊勢参りに行く。
これが発展して急にお金に困ったら集落の長と交渉して講からお金を融通してもらう。
集落がこのお金の仕組みで団結したんだと思います。
そして、みんなで貯金することで生活が豊かになったのだと思います。
最初はお伊勢参りに行くのはとてもお金のかかることでした。
しかし、旅をすると普段得られない経験をいろいろしてきます。歩いている間にいろいろな商売方法を目にしたり、農業技術も進歩したと思うんです。江戸時代は商人の力が強くなる時代です。
農民もどんどん副業を始めたり、新しい作物に挑戦したりします。
参勤交代などでそれぞれ土地の名物が将軍家に献上されることで様々な商品のブランドができたと思います。
とにかく、この「講」というのが地方における金融機関の役割を果たしていくようになるんだと思います。この仕組みには御師が活躍したんだと思います。
御師は、もともとは伊勢神宮にやってきた庶民の祈祷受付所みたいな役割だったんだと思います。神宮の神職とはつながりがなく、伊勢神宮を一目見たいとやってきた庶民が、伊勢にお参りしたい、祈祷をお願いしたい、という要望にたいして神宮には「私幣禁断」の制があったので受け付けません。これを代理で受けてお神楽など祈祷をしたのが御師の始まりのようです。
ところが武士の世の中になって朝廷の力が弱まると、伊勢神宮も「私幣禁断」などと言っていられなくなります。
それどころか政情不安で式年遷宮まで行えない状態になります。
この式年遷宮を復活させたと言われるのが慶光院清順という尼僧です。
伊勢神宮が遷宮をなかなか行えなかった室町時代後期に、目の前の五十鈴川にかかる宇治橋は勧進聖によって新しく架け替えられました。伊勢神宮としては神宮の本体は改築されないのに門前の宇治橋だけ新しくなってしまったのです。
そこで清順という尼さんは神宮に掛け合って伊勢神宮も勧進で式年遷宮をしたいと運動したのです。特に織田信長や豊臣秀吉がこの勧進に寄付したようです。
これが神職に認められて伊勢神宮の式年遷宮は123年ぶりに復活するのです。
この清順という女性はどうやら伊勢路沿いの紀和町という所の出身だったそうです。
つまり熊野の勧進をモデルに伊勢神宮を勧進したんだと思います。
この清順と神宮の仲介をしたのが御師でした。御師はここから神宮の勧進を引き継ぐことになったんだと思います。
