ちょっと横道にそれて「道」の話題を。
熊野古道で宿をしていると、改めて「道」について考えたりします。
道というのは人が通ることでできます。山の中の道は、最初はけもの道を狩りなどで獣をトレースすることで開拓されていき、人が通りやすいように整備されます。これが道普請です。
やがて通りやすいように、人がすれ違い易いように、そのうち馬や荷車が通りやすいように拡がっていきます。
使われなくなった道はどんどん閉じていくんですね。自然の力って本当にすごいです。
閉じていくというのは、整備されないと枯れ葉や倒木など堆積物が積み重ねっていき。だいたい5年もせずに元の自然に戻ってしまいます。
舗装された道路も使われないとアスファルトが侵食されてしまいます。
コロナ禍では道もだいぶ傷みました。人が踏まないと木の気根も浮いてきて足を引っかけやすくなります。クマの目撃情報が増えたのは、ハイキングする人がいないと動物も安心して寄ってくるという事も一因ではないかと思います。
動物は道があり、人の気配がある場所には近寄ってこないのです。
熊野古道も巡礼者が増えれば茶屋など飲食店や宿ができます。人のいない山林では林業以外の産業はなかなか育たないのではないかと思います。
明治以後、産業革命により交通インフラが進歩しました。鉄道が導入され軌道敷が日本中にできます。本宮大社にも鉄道が敷設される計画があったようです。十津川方面にはその跡があります。
しかし技術の進歩は早く、次は自動車の時代になりました。
熊野でも急速に道路は舗装されたようですが、当時は馬力の少ない木炭車なんかもあったため、急こう配が登れず人の手で押していくこともあったそうです。
最初に熊野にできた舗装路は今でも使っているところもありますが、旧道と呼ばれているところも多いです。山間地域ではどんどんトンネルが掘られて道が改良されていきました。
今、熊野古道中辺路の近くを通る国道311号線は、約30年前ごろできた道だそうです。
紀伊田辺駅から本宮大社近くまで、何度もトンネルを抜ける道です。
このトンネルを抜けるたびに集落が変わると考えてください。
トンネルの反対側とは山を越えなければいけない為、集落同士の30年前まで交流がなかった所がいっぱいあります。それがほとんど全部繋がってしまったのです。
例えば中辺路町の近露と野中は間にトンネルがなく、昔から日常的にお互い行き来がありました。
近野村という名前で呼ばれていた時もあります。親戚も多く、今は同じ小学校に通っているし以前は野中小学校と近露小学校はそれぞれライバル関係でした。
しかし、その手前の福定という地域とは逢坂トンネルを挟んで分断があります。
親戚とかの繋がりもほぼなく、どんな人が住んでいるのかあまり知りません。
こうなると同じ郷土という認識さえあるのか疑問です。
例えば甲子園で地元和歌山県の古豪、智辯和歌山を応援しましょう!といってもちょっと地域離れているからなぁ…地元って言ってもあまり共感しないよね、ぐらいはわかるんですが、紀南の同じ市内の、それも同じ旧町内でさらに国道を通れば10分で行ける集落同士です。噂話も分断されます。
こういうことは実際住んでみないとわからないことです。
