熊野信仰やヨーロッパのトレッキングを「雄大な自然と自分を向き合わせる」なんて抽象的で大雑把なもので一括りにしてしまいました。
特に普段、自然を相手にして仕事をしていらっしゃる一次産業の人にはピンとこないと思います。
また、巡礼している方たちの中でも、「いやそうかな」と思う人も多いと思います。
巡礼って、人それぞれです。その人の巡礼があっていいと思うし、サンティアゴ巡礼も、熊野古道も、だから千年続いている。人の定義に縛られず、自分の思いで歩く。歩き続けるんです。
人それぞれの思いは千差万別ですが、では何故、熊野古道を歩くのか、サンティアゴ巡礼を歩くのか。車があるにも関わらず、人はあえて「歩く」という選択肢をとるのか。
私も、最初サンティアゴ巡礼を歩き始めた時、「これが千年以上、人が歩き続けた道で、私もその大きな流れの一人になるのか」とか思いました。
歩いていると人の足跡(いや、ぬかるんだ道につくあしあとではなく、目印だったり人が歩いたことで草が生えず踏み固められた土だったり。多くの人が巡礼している様子を描いた壁画(バンクシーみたいなスプレーアート)を見たり、十字架の前に置かれたお供え物とか)を見ながら興味深々でした。最初の数時間は。
よく考えたら原始、人は様々な所を歩いていたはずです。そういう意味では多くの道は太古からあり、千年どころか数千年前の道だってあると思います。
ではなぜ、今ここを歩いているんだろう。ああ、スペインの自然は日本と違うなぁ。同じ草が生えていてもサイズが違ったり、見たことない物もあるなぁ。よくわからないけど。
おぉ。道標だけでなく、マンホールや住宅を囲うフェンスにもホタテがデザインされてる。
トイレの男女の表示も巡礼者になってる。細部まで巡礼なんだなぁ。
巡礼がこういう意匠にまで浸透してるってすごいなぁ。
とか思います。二日目ぐらいまでは。
でも段々、目新しいヨーロッパの後継や巡礼の雰囲気に慣れてくると、あとは広大な自然です。
スペインの町以外の何もない広大な草原とかを歩いたりします。数時間、光景が変わらないこともあります。歩き続けて足も痛いです。でも、それも痛いこと以外はそんなに変化がなくなります。
だんだん自分以外のものが変化しなくなります。
そうすると段々自分に没入する瞬間があります。広大な自然の中、歩き続けても数時間変化しない
風景。自分が東京から、会社から、友人たちから、家族から離れて変化のない時間をただただ足を動かしています。歩いている間、なるべく荷物を軽くして歩きたいので持っているものもシンプルになります。
普段自分が忙しくて、社会に身を置いて責任を果たしていて物理的に、精神的にいろいろなものを背負って生きていた事に気づきます。忙しさの中で少しずつ距離を置いていた家族の死などをゆっくり咀嚼する時間かもしれません。
巡礼する人はよく、「背負っているバックパックの他にもう一つ、心の荷物がある」という言葉があります。その、心の荷物を下ろす旅なんだと思います。
それは巡礼しながら、歩くという単調な行為を繰り返しながら、サンティアゴの草原や流れゆく街並みや歩く人同士の会話だったりふと見た景色の何かが心の琴線に触れる。
「歩いていると神に感謝するようになる」という人もいます。
私は神が何かわかりませんが、私の解釈する巡礼は、背景に日常と違う大自然があり、社会生活の中の自分が切り離されてシンプルになって、その雄大な自然とちっぽけな自分が向き合わせる旅なんです。
私は自分で巡礼してみてそのことを感じ、人が巡礼の中でその背負った荷物を下ろす旅をしていて、そのお手伝いができる宿ができることにやりがいを感じているのです。
