熊野古道の紀伊路、伊勢路など

熊野古道には大きく分けて6つのルートがあります。

 

大阪天満橋付近(窪津王子)から田辺までの紀伊路

田辺から本宮大社を経由して那智大社までの中辺路

田辺から白浜や串本を経由し、那智大社までの大辺路

伊勢神宮から那智大社までの伊勢路

高野山から本宮大社までの小辺路

吉野から本宮大社までの大峯奥駆道

 

です。

今回はこの道の時代による流行り廃りを大雑把に説明します。

 

これはどこかの文献とかではなく、それぞれ熊野古道を説明するときや、道沿いに書いてある紹介文を読むと、何となくこの時代によく使われたのかな、と感じる物です。

そもそも、道ですのでいつの時代も使われていたと思いますが、その時代に巡礼するメインのルートが変わっていくのです。

 

最初、熊野古道を巡礼として使った宇多法皇は本宮大社にお参りしています。

どうやら新宮や那智には参詣していません。このことから当初利用した道は紀伊路から中辺路だったと思われます。

 

次に巡礼した花山法皇は高原や近露など多くの経塚を遺しています。なので紀伊路から中辺路を通り、最後那智で三年間修業しています。

 

本宮から那智までは、新宮を経由したのか、それとも小雲、大雲取越を利用したのかわかりません。

そのころ本宮から新宮までの川下りができたのか、今のように定期便はなかったでしょうから、

地元の先達が船を手配したのか不明です。

逆に小雲・大雲取越を歩いていると、盛んになったのは江戸期からだそうです。

 

熊野御幸を制度化した白河法皇は9回の御幸を行っていますが、そのうち8回は本宮大社のみです。恐らくは紀伊路から中辺路だったのだと思います。

 

では紀伊路は使われなかったのかというと、後白河法皇は紀伊路で御幸を行っています。

花の窟神社には法皇の歌碑があり、「紀伊路もよいが、伊勢路もよい」という意味の和歌を遺しています。これは、先達となった平清盛が伊勢平氏だったので、自分の拠点である伊勢方面の方が地理に明るかったのだと思います。

しかし、後白河法皇は伊勢神宮には参詣していません。

 

伊勢神宮は持統天皇が参詣した後、明治天皇になるまで天皇家が参詣した記録がないそうです。

これは理由は不明です。

想像するに、伊勢神宮は鎌倉時代まで、斎宮がいました。斎宮は伊勢神宮で神事を行う巫女ですが、皇族の処女が選ばれていたそうです。

中には不義密通を犯してしまった斎宮もいらしたようで、男性皇族は立ち入りを禁じれらていたのかもしれません。

 

伊勢路は平家によって御幸の道、熊野古道になったのだと思います。

 

しかし、神武東征を思い出していただければと思うのですが、最初天皇一族は熊野を征服したのち、伊勢方面から奈良盆地を目指し、大和朝廷を作ったはずです。

なので、道としては伊勢路の方が最初にあったと思います。

 

しかし、熊野御幸は最初紀伊路から中辺路を切り開いた(もともと道はあったと思いますが、御幸という形で大人数が通る道へと整備されていった)わけです。最初の先達が伊勢方面に詳しくなく、恐らく田辺方面の山伏であったのだと思います。

 

恐らく先達を務めたのは宇多法皇はわかりませんが、花山法皇は安倍晴明。

白河法皇は園城寺長吏の増誉。安倍晴明は讃岐の人で西日本側を通ったと思われます。

増誉やその後継者の行尊などは吉野、大峰などで修行してますが、御幸を大峰方面から先達として案内するとは考えづらく(峯入りの作法として熊野から大峰へ行く順序を順峯とよんでいた)

中辺路を利用したのでしょう。

 

熊野九十九王子は、そのほとんどを紀伊路、中辺路の本宮大社までにあります。

成立ははっきりしませんが、11世紀ころから「王子」はあったようです。

それが12世紀から13世紀の間、鎌倉時代に修験者達によって整備されました。

庶民が熊野詣をするようになり、救いを求めた「蟻の熊野詣」は最初、紀伊路から中辺路が中心だったのではないかと思います。

 

蟻の熊野詣は全国から来たと思います。当然、鎌倉を始め東日本の人口も増えてきて経済力も伸びていると思います。庶民の熊野詣は各熊野三山にある本願所に詰める聖が先達として斡旋しています。熊野九十九王子は本宮大社のプロモーションだったのだと思います。

 

熊野比丘尼が絵解きで案内する熊野詣は所属する所によって違ったのでしょう。

私が聞いたことがあるのは那智大社へ行く絵解きでした。

 

勧進聖の規模はそれぞれ大きかったですが、那智大社は7つの本願所があったので特に大きかったと思います。伊勢路の場合は速玉大社の近くから川を渡ったのだと思いますが、本宮から那智に行く場合、中世では川下りをして速玉大社に行き、海沿いを那智へ向かうのが主流だったようです。

 

鎌倉時代に蟻の熊野詣と言われるくらい熊野詣が隆盛になるにつれて、中辺路から伊勢路の方が通行量は増えていったのではないでしょうか。

それは、政治経済の中心が鎌倉など東日本に移っていったからだと思います。

もちろん京都に天皇がいて、都は京都です。しかし、平安時代の京都一極集中からどんどん東側の人口が増えていったのだと思います。

 

もう一つは、伊勢神宮の変遷です。

伊勢神宮も、恐らく室町幕府による半済と戦乱によって急速に衰退します。

そして100年以上、式年遷宮が行われませんでしたが、慶光院清順という尼さんが、伊勢神宮近くを流れる五十鈴川の橋の架け替えを勧進によって行います。

これを契機に神職から伊勢神宮の勧進を認められます。

 

伊勢神宮はそれまで律令制によって「私幣禁断」という決まりがありました。これは、伊勢神宮は天皇の神社であり、皇太子や皇族であってもお供えができません。

そのため、神宮周辺で祭壇を作り、御師という人が祈祷をしていたそうです。

 

それが、神宮の荒廃と五十鈴川の新しい橋によって「 私幣禁断」の禁を破るきっかけになったのだと思います。御師による祈祷ではなく、本家本元の神宮に勧進することができるとなって、庶民に一気に伊勢信仰が広まり、御師の手配による「お伊勢参り」が盛んになります。

 

このお伊勢参りが江戸時代になると全国的に広まります。これは江戸幕府が街道を整備したことで庶民の往来が簡単で安全になったことが大きいと思います。あと、幕藩体制の中、諸藩が経済政策に乗り出し、戦国時代に培われた土木事業で治水事業なども進み、庶民は災害からも守られるようになりました。

 

江戸期の巡礼は、このお伊勢参りの余波を受けて再興されます。それが「西国三十三か所巡礼」だと思います。この場合は、熊野古道の古代の仕掛けである中辺路の水垢離や湯垢離などの場所が逆になったのです。つまり、中辺路は熊野から離れる道になります。

伊勢神宮から伊勢路を通り、那智大社から大雲・小雲取越を行き、本宮大社へ。そして中辺路を下って紀三井寺へ行くというコースです。

この時の中辺路は、今のコースとちょっと違うと思います。本宮大社から野中、近露を経由して高原までは恐らくほとんど変わりませんが、

 

 

お伊勢参りをした江戸庶民は、段々巡礼という名の観光巡りになっていきます。巡礼と称していれば、比較的どこでも観光できたからです。お伊勢参りをした後、地元には戻らずに紀伊半島を周遊したりします。これが大辺路です。ですので、大辺路は江戸時代の観光の道という表現で紹介されたりします。

 

また、小辺路や大峯奥駆道ですが、これは主に僧侶や修験者、山伏が歩いた道のようです。

小辺路は近年外国の人も歩く道になってきていますが、中辺路に比べるとやはり急峻で宿などのインフラもまだまだ整っていないのが現状です。これから観光客の増加と受け入れ態勢が強化されていくと思います。ごくたまに、行方不明者の看板を見かけますので、遭難された方がいるようです。

 

本宮から伏拝王子を過ぎた所に「三軒茶屋跡」があります。そこは高野山への小辺路と紀三井寺に向かう中辺路の分岐点で、石の道標があり、「ひだりかうやさん、みぎきみゐでら」と書かれています。

私が中辺路を歩いて初めてこの道標を見た時、二つの疑問点がありました。

 

最初の疑問は、中辺路の道中にあるのに、本宮大社がどっちにあるのか書いてないのです。

 

これは上記の理由からです。江戸時代にできた道標では、本宮大社から歩いてきた人に対して書かれたものだったからです。

 

もう一つは、紀三井寺に行くのに中辺路を利用していることです。

和歌山市の南側にある紀三井寺。地図上の位置で言うと高野山と同じくらい北側にあり、

むしろ高野山を経由して山を下りた方が、わざわざ中辺路を下りて田辺まで南下し、紀伊路を北に行くのは遠回りではないか。と思ったのです。

つまり、中辺路は今でこそ車も通れない秘境のトレッキングの道ですが、江戸時代は古くから使われる熊野街道であり、いわば幹線道路だったのです。

 

 

 

 

大峰奥駆道は修験者の道です。

現在でも、青岸渡寺の僧侶が毎年山伏たちを引き連れて修行しているようです。

道中で様々な修行が行われ、足に鎖をつなげて断崖の端まで身を投げ出す捨身のような修行などがあるようです。