新宮という町

和歌山県新宮市。速玉大社のお膝元ですが、熊野三山の中で一番大きな町です。

 

本宮大社は田辺市こそ大きな市ですが、本宮はその中の本宮町の中心地に過ぎず、三山の中で一番大きな町は新宮です。

 

新宮はちょっと変わった経歴の町です。

徐福伝説の町なんです。秦の始皇帝が探す不老長寿の薬を求めて東の海へ出向した徐福です。

 

あくまで伝説ですが、新宮には徐福公園があります。

公園の門は関帝廟みたいな中国っぽい作りです。

ちょっとこの界隈だけ中華街っぽいです。

実際に(徐福じゃないけど)渡来人が多かったのではないかと思います。

 

また、この新宮からちょっと離れた三輪崎という所が神武東征の上陸地という伝承です。

 

どうやら、ここは古来から船が漂着しやすい所だったらしいです。

紀伊半島東側のもっと南は勝浦や太地、串本といった地域ですが、目立った川が流れていません。

たいていの場所は橋杭岩のように岩礁が飛び出ていたり、海岸が切り立っていて漂着するころには傷だらけだったり、恐らく人もなかなか住んでいなかったと思います。

 

新宮は熊野川の河口なので、古くから人が住んでいたのだと思います。

そこに徐福(のような渡来人)が流れ着いた。

 

新宮の人から見たら、海の先には何も見えないが、ある日突然人が流れ着いたりするわけです。

それも、自分たちの生活圏で使われる言葉とはどうも違う言葉をしゃべるらしい。

 中国や中国の文化技術を吸収していた新宮以西から漂着する人は、新宮に在住する人間からみたら「異能の人」だったでしょう。

 

漂着した多くの人は住民に保護される代わりに新しい文化を持ち込んだのです。

そして新宮地域は川がもたらす栄養(魚や農業・生活用水)と豊富な海と山の幸、主食を産する平野に渡来人の文化がアクセルとなって発展しました。

 

神武東征の足掛かりとしてもふさわしい土地でした。神武天皇(は実在しないですが、大和朝廷を打ち立てる天皇一族の先祖)は自分たち手勢とヤタガラスに象徴される現地在住の地理に詳しい一族が先導役となって熊野から伊勢湾の方へ勢力を拡げ、最終的に奈良盆地に朝廷を建てたのが大和王朝だと思います。

 

もしかしたら、ヤタガラスは本当のカラスだったのかもしれないですね。

八咫というのは親指と中指を拡げた長さ(約18cm)で、かける8だと約150cm。

とにかく大きいカラスという意味だそうです。

(後に異能ななりを示すために3本足にしたのでしょうか)

 

神武東征の時期(要するに大和朝廷が想像する古代の時期)、死者は埋葬する前、殯(もがり)という習慣があったそうです。どうやら遺体を棺にいれて安置し、自然分解されて骨だけが残った後で埋葬するそうです。

 

分解する主役は恐らくタヌキなどの小動物と鳥。とりわけカラスだったと思います。

 

恐らく、ヤタガラスというのはそういう食料に困っていない、豊かな集落の周りにいるカラスであり、東征の標的とする集落を探す指標だったのではないかという事です。

 

とにかく、天皇一族の先祖である神武天皇に当たる人は、新宮の三輪崎という地に大和朝廷を作るだけの大軍を擁したとは考えづらく、1人または少数だったと思います。

 

しかし、海から来た先進の技術と文化を持っている漂着者たちに畏敬の念を持ち、新宮の人々は彼(ら)を盛り立ててヤタガラスとともに大和朝廷を作る礎を気づいたのではないでしょうか。

 

そののち、新宮は熊野の交通ハブとなっていきます。紀伊半島に漂着する人々とのハブであり、伊勢路から熊野三山への入り口でした。そして山(本宮、吉野、高野山)からの熊野川を下って海に出るハブです。

今は本宮から那智への人気のトレッキングである小雲・大雲取越は江戸期になってから流行った道で、それまでは修験者や僧侶といった修行する人しかほとんど行かなかった道なので、本宮から那智に行く人は、ほぼ新宮を通っていました。

 

水運としても紀伊半島東側の大きな港である新宮は、大阪・堺などから東海道・江戸への水運の中継地点としても重要でした。蒸気などの動力機関のない時代、物流のメインは水運です。江戸・大阪間の物流はほとんど新宮または尾鷲あたりを経由して運ばれていったのです。