つまりまとめると
熊野の3つの神社は自然崇拝の霊場でした。それが天皇一族が東征することで本宮大社、速玉大社、那智大社になったが、元々はそれぞれ独立した霊場だったのです。
奈良時代に伝来した仏教が中国の当時先進技術、文化とともにブランド化され、天皇一族も日本の祭祀を司る身分でありながら天皇を譲位して後継に祭り事を託すと仏教に帰依し出家しました。
譲位した上皇や法皇は行動が自由になり、霊場を参詣するようになります。特に地質学的に中央構造線から南にあり、熊野カルデラを構成する紀伊半島には、ゴトビキ岩、花の窟、那智の滝など自然が作った名勝が多く、自然崇拝に繋がりました。古代人の目には人知の及ばない奇岩、巨石、滝などが聖地のように見えたのでしょう。
天皇一族は朝廷ができて数百年たつと、先祖が東征という形でやってきた紀伊山地およびその南側を自分たちのルーツであり特別な力を感じる熊野を行幸したり修行の地にします。そして熊野の霊場たちに荘園を与えて保護するようになりました。
譲位して祭りごとの儀式は天皇に委ねながら政治の実権は握ったままだった法皇。熊野御幸に同行する人間も政治的有力者が多かったようです。
一方、日宋貿易で力をつけた平氏は熊野御幸の先達になり、有力者に近づくと共に熊野に対しても影響力を持ちました。
しかし、力を持ちすぎた平清盛は南都焼討など寺社仏閣に対して蔑ろにするようになってしまったのです。
東方の源氏勢力が平家打倒のため挙兵すると、闘鶏で神意を受けて源氏に加勢しました。
しかし、源氏が鎌倉へ政権を移動させると、全国に配置された地頭によって荘園の管理権が奪われてしまい一旦は衰退します。
熊野は浄土思想を背景に勃興した時宗を始め遊行層や熊野比丘尼によって庶民に仏教が普及します。
その浄土としての憧れの地が、一遍が託宣を受けた熊野権現のいる熊野だでした。
これにより鎌倉中期から室町中期まで救いを求める庶民の「蟻の熊野詣」がおこったのです。
古代から近代まで、庶民が恐れていたものは自らの努力ではどうにもできないもの。地震や台風などの災害、そして権力者による戦乱、原因不明の伝染病でした。
それを救う受け口の一つとして熊野信仰があり、熊野古道を巡礼する歴史が続いたのだと思います。
