熊野古道がなぜ世界遺産になったのか

まず。明治の文明開化により、交通インフラが大きく変わったこと、そして西欧文化を取り入れる上で日本の文化が大きく整理され江戸期の支配体制の中に組み込まれていた仏教が失墜し、新宗教が生まれ日本の精神的な構造が大きく変換されたことにより熊野巡礼はほぼ姿を消したようです。

 

熊野に移住した時、東京で感じていた「神仏習合」と熊野で見たそれとは、混じり方が違うと感じていました。東京での神仏習合というのは(僕の主観です)使う側(拝む側)が適当です。

初詣に明治神宮へ行ったり、浅草寺に行ったり。参拝方法もそんなに明確に神社だから、仏閣だからとかあまり気にしません。

 

でも、神社は神社。お寺さんはお寺さん。葬式は仏教で、結婚式は神式。あとはそれぞれの家によってそれぞれが好きに決めていいです。

 

熊野での神仏習合はもっと深い歴史があります。本地垂迹思想という物です。

熊野権現は阿弥陀如来であるそうです。

 

そもそも、平安期に歩いた熊野御幸というのは、最初の宇多法皇がそうであったように仏教的な意味でした。天皇を譲位し、上皇となって出家したことにより法皇になります。そして比叡山などお寺巡りをする中での熊野御幸だったのです。

 

言うまでもないですが、天皇は在位中、祭りごととして神式の祭事を執り行います。

新嘗祭などです。祭りごとは政治も含んでいたのですが、その境界線が昔は不明確です。

恐らく、仏教か神道かも不明確だったのだと思います。

 

天皇は祭りごとの担い手でありながら、遠く中国からくる最新の技術と文明、文化に強く憧れ、また豪族の中には仏教を推し進めるものも多く、蘇我氏を始め親戚の多くも仏教でした。

 

しかし、当時すでに永く続いていた日本式の祭りごと(神道)を蔑ろにすることはできません。

古事記、日本書紀をベースに天皇家の伝説は作られていて、今更仏教になりました。というわけにはいかなくなってしまったのだと思います。そして、代々続く神々の教えに逆らい、神罰を下ることを本当に恐れたのです。

 

そこで、外来の仏教と習合する形となりました。

これは全世界の世界的な宗教が現地の自然崇拝から始まる民族宗教と習合するときによく起こるものです。そもそも、仏教自身、インドのヒンズー教の神様からの影響を受けていますし、キリスト教におけるクリスマスやハロウィーン、セントパトリックなども習合の一例だと言えます。

 

日本における本地垂迹思想がいつできたのか定かではないのですが、恐らく平安時代中期から後期の頃のようです。熊野御幸を制度化した白河法皇から後白河法皇まであたりだと思います。

 

熊野とは太古の人たちにとって何だったのでしょうか。

 

遡ると、大和朝廷を作った天皇を中心とした部族は、中国地方から近畿地方へ進出するにあったって、地の利が悪かったせいか一度熊野へう回します。新宮と勝浦の間ぐらいのところに三輪崎という地があり、「神武東征の上陸地」とされています。

そこから熊野へ攻め入り(ヤタガラスの導きの下)、最終的に橿原へ都を作りました。そこから平城京を作り、平安京へと北上して遷都します。

 

熊野は高温多雨な所です。神武東征以前から現地の人たちは嵐の度に洪水を恐れ、地震による山崩れを恐れ、季節を問わず滾々と飲み水を与えてくれる滝の恵みに感謝したのだと思います。

 

熊野川を鎮めるために本宮大社、恵みを受けるために那智大社、川と海の交通と水産物の恵みを受け災害を防ぐために新宮そして山崩れを防いでくれる巨岩を祀る神倉神社。元々はそういう自然崇拝の霊場だったのだと思います。

それが天皇一族の征服によって神社になりました。

 

その後、平安京から見たら古都平城京、その奥にある橿原宮、そしてさらにその奥にある熊野。

熊野御幸は仏教でありながら、天皇家にとっては日本神話の舞台であるルーツを巡る旅だったのかもしれません。