熊野古道と宗教弾圧

熊野古道は昭和の初めごろにはほとんど巡礼する人はいなくなった、と言われています。

 

一つには先の明治ごろ、廃仏運動が原因だったと思います。

熊野三山へ訪れる人自体が減ったのかというと、「以前のように歩いて旅をしなくなった」というのが正解なのではないかと思うのです。

以前、伊勢神宮に行ったとき、ガイドの方が説明してくれた中に、「前は参道がちょっと違っていました。それは列車で訪れる人が車での移動に変わったからです」という説明がありました。

 

明治以降の文明開化で、人の移動手段が変わりました。人は列車やバスなど公共交通機関に頼るようになったのです。これは熊野三山でも同じだったと思います。比較的海沿いの新宮や那智山には観光客が来ていました。しかし、本宮は移動手段が非常に困難だったと思います。

 

本宮在住のご高齢の方に話を聞いた時、昔は(と言っても戦後すぐの頃だと思います)本宮から新宮に行くのは現在で言う東京に出るのと同じくらい特別なことで、そう頻繁に行けないし、お出かけ用の服装で行った。と言っていました。

 

当時の交通網では本宮から新宮へ行くことはそれくらい大変な移動だったという事だと思います。

ちなみに中辺路の近露から白浜に行くのは一晩泊る必要があったそうです。

 

もう一つは宗教弾圧があったことだと思います。

 

江戸時代の制度として、寺請制度というものがあって、すべての人は檀那寺を持つことになっていました。そして、この寺請制度で人別帳を兼ねていたどうです。今の戸籍もこのデータをベースにしているそうです。つまり、僧侶は幕藩体制の住民課みたいな役目になったという事ですね。

こうなると、本来の宗教としての性格が変化してしまい、汚職が横行し、場所によっては僧侶としての品位が下がってしまうのも当然だと思います。

 

江戸後期から明治にかけて、新宗教が生まれたのはこういう背景だったんだと思います。

近畿で有名なのは天理教や辯天宗、大本教などです。大本教は綾部市、天理教は天理市、辯天宗は五條市に本拠地があります。やはり山の中というのは宗教の拠点となりやすいという事なのかもしれません。

 

近露王子の碑を揮ごうしたのは大本教の出口王仁三郎だっだのですが、大本教は2度の宗教弾圧を受けていていました。その弾圧から逃れるために、碑文の銘をを出口氏から横矢氏に変えたという事が案内板に書かれています。

 

江戸時代まであった朝廷の機関である陰陽師の陰陽寮が廃止されたものこの明治の初頭です。

明治では西欧文明に追いつくべく神仏混合という日本独自の宗教観を一大転換させる必要があったのだと思います。

こうした背景の中、熊野古道巡礼も明治5年に修験道廃止令などで公には禁止されてしまいます。

 

これは熊野巡礼だけでなく、四国のお遍路なども禁止されたようです。