明治と熊野古道

明治維新と熊野古道って、もう情報が少ないです。

これは、明治後に起こった宗教弾圧が関係してくると思います。

 

明治維新によって「王政復古の大号令」なるものが出されて、政治の中心が江戸幕府から朝廷に移ります。しかし、江戸260年の歴史がすっかり天皇に対する権威を失ってしまっていました。

その天皇の権威を復活させるうえで行われたのが「神仏分離」でした。

しかし、神仏分離にはだいぶ地方によって差があるようです。

私が東京で暮らしていた時は門前仲町という所だったのですが、すぐ近くに富岡八幡があります。

その隣には深川不動尊があるのですが、明治以前は同じ敷地にあったようです。それが明治になって分けられました。

 

ところがこの熊野では、この神仏分離という政府のお達し(実際には「神仏判然令」という、神なのか仏なのかはっきり分けなさいという法令)があると、民間の間に廃仏運動がおこり、熊野三山の仏教的建物、仏像、経典などが破壊されていきました。

恐らく日本全体が江戸幕府の終焉と開国という、何か狂気的な改革に目覚めて暴走したんだと思います。

それが、特に熊野では廃仏運動という形で爆発したのかと思います。

それは、江戸時代の環境変化で神道化が起こり、今まで静かに紀州藩にお伺いを立てながら本願の仏教勢力から役割を奪ってきた、今は政府が神道なのか仏教なのかはっきりしなさいと号令をかけているから、一気に神社一色にしてしまおう。という気分だったのだと思います。

 

熊野三山では、明治当初本宮大社は今の大斎原にあり、その隣に本願所があったそうです。

その本願所が壊されたのだと思います。今は明治の洪水で大斎原という場所だけ残っており、今の本宮大社の社殿に仏教的な痕跡はありません。新宮は速玉大社の裏手に権現山(千穂が峯)があり、その山中に3本願ありましたが廃寺になってます。

熊野那智山には7本願ということで大変大きな組織だったのでしょう。青岸渡寺と那智大社は元々廊下がつながっていたそうですが、今は隣りあわせでも敷地が分かれていて「分離」されて難を逃れたのだと思います。

 

「熊野三山」という言い方も、多分に仏教的ですね。寺の場所を「山」と表現するのは仏教の発想らしいです。音読みをすると仏教的で訓読みの物は神道的な傾向がありますよね。