江戸時代の熊野古道の環境変化

江戸時代に熊野古道の性格は徐々に変化していきます。

どう変わっていったのかというと、仏教に近かった熊野三山が神道化していきます。

 

変化する理由はいくつかあります。

 

1つは庶民の熊野古道を歩く理由です。

江戸時代は戦国の世の中が終わり、大名たちはそれぞれの功績に応じて国替えされました。

そしてそれぞれの藩が経済の立て直しを始めます。

 

その中で戦国・安土桃山期の軍事で培われた技術が花開き、また、インフラ整備が進んだことで経済が活発化します。たぶん、第二次世界大戦が終わった後の日本の高度成長期に似てるんだと思います。

庶民が当時歩く理由は、救いを求めるというより、江戸時代に整備された道を観光目的に歩くことでした。

 

江戸期に一番盛んだった巡礼はお伊勢参りです。年間480万人の人が巡礼したそうですが、これがどれだけすごい数字化というと、2019年の熊野古道を手配する熊野ツーリズムビューローが手配した宿が年間5万人です。熊野古道を歩くとき一人大体2~4泊するので、熊野ツーリズムビューローが手配した熊野古道参拝者は約1万人から1万5千人程度だと思います。

他のツアーは数字が把握するのが難しいですが、どんなに見積もっても熊野古道中辺路を滝尻から歩いている人(解釈は様々ですが)は10万人を超えることはないと思います。

 

そしてもう一つの世界遺産、サンティアゴ巡礼(スペイン西北部にあるヤコブの墓が見つかったという大聖堂へ向かう巡礼の道)でさえ、近年巡礼者が特に増えたといっても40万人が巡礼証明書を取得したそうです。(たぶん実数は正確ではありませんがその倍ぐらいの方が巡礼してるそうです)

 

このお伊勢参りをした人は巡礼という名目なら比較的自由に旅行ができるため、諸国を観たいがゆえに熊野古道を通ったりする人も多かったそうです。

つまり今まで熊野三山を訪れていた人々よりずっと宗教色が薄くなっていきました。

 

2つ目に紀州藩の意向があったのだと思います。

 江戸時代は当初、キリスト教を排除するために庶民を5人組という形で隣保制を作り、檀那寺を持つことでキリスト教ではない証明にした。つまりキリスト教を排除するために日本人全員仏教徒である証明を求めたという事です。

そして、仏教に対しては「諸州寺院法度」という形で僧侶の在り方を統制し、神道にたいしては「諸社禰宜神主法度」という形で神職に対する統制を行いました。

 

これは伊勢神宮などは独自の体制のままで良かったようですが、熊野三山は影響を受けたようです。

紀州藩としてはこの神職に対する統制に沿い、熊野三山を神社として扱いました。

熊野三山では神職は社家が司り、僧職は本願が司っていたのですが、この社家が京都へ行って吉田家から神道講習を受けてくることになります。

吉田家は本地垂迹思想(仏が本来の姿で日本では神様という仮の姿をしている考え方)とは逆の唯一神道(日本の神様こそ本来の姿で、仏とは神様の仮の姿という考え方)でしたので、熊野三山での力関係が本願から社家に大きく偏っていきます。

具体的には、今まで執り行ってきた熊野三山での祭事の役割を本願から社家に変更するべきだ、という社家の運動に対し、紀州藩がそれを認めていくことになります。

 

これによって、元々は仏教らしい行事が神職の手で行われるという不思議な神仏混合の姿を見せるのだと思います。例えば、熊野那智大社の前で行われている護摩炊き。私は神社で護摩炊きをする姿を見たことがありませんでした。

また、般若心教という仏教のお経があるんですが、この熊野では仏教徒として般若心経を読むときと、神道として般若心経を読む場合と使い分けるそうです。(熊野の人の一部だと思います)仏教の場合は「仏説」を頭につけてお唱えし、神道のときは「仏説」をつけないそうです。

他にも本宮大社の神主さんが一遍上人を月次祭で法要したり、独特の習慣があります。