江戸時代の熊野巡礼復活

私の幼少期によく観ていたドラマが「水戸黄門」です。

歴史が好きだったからもあると思います。かげろうお銀さんにドキドキしたのかもしれません。

諸国漫遊の旅をしていた黄門様、史実では格さんと助さんが諸国へ出張していたらしいですが、

一般庶民は理由なく旅ができなかったようです。

 

「入り鉄砲、出女」などと言うように関所で通行手形を見せて厳しく検問していました。

しかし、巡礼だけは認められたようです。

「東海道中膝栗毛」もお伊勢参りの話ですね。

 

幕府が当時気にしていたのは、キリスト教を禁じることだったのかもしれません。

「伊勢へ七度、熊野へ三度」というのは、信心にはきりが無いことの例えだそうですが、

平和な世の中になって商人経済が発達すると共に巡礼は加熱していきます。

江戸時代中期にはお伊勢参りをする人が480万人を超えたそうです。

 

 

江戸時代の紀州藩は今の和歌山県とさらに紀伊半島東側の熊野市や伊勢市まで含まれていて約56万石です。

いかに米が作られていないかが分かります。

 

そこに徳川御三家の頼宜が紀州藩主になります。頼宜は藩政の中で街道整備を重視していたそうです。

それで紀伊路、中辺路、大辺路、伊勢路が改めて整備されました。

 

全国的に徳川政権は街道の整備に力を入れたようです。大名の参勤交代のためでもあったし、軍事的な意味もあったのでしょう。五街道(東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道)を整備し、それ以外の主要な道路として脇往還と呼ばれる道も整備しました。この脇往還の中に伊勢路が入っています。

 

そして、熊野古道もこの政策の一環で整備されたと思います。古道で石畳の道をよく見かけますが、大体この江戸時代に整備されたものです。近所だと箸折峠の牛馬童子あたりから近露の里へ下りる道が石畳になっていて、勾配も急な下り阪。雨の日などは特に滑りやすくて、歩くときにとても気を使います。これは、江戸時代は草鞋で歩いていたので石畳の方が滑りにくくてよかったそうです。外国人もゴム底のトレッキングシューズなので結構苦労されてます。

 

しかし、近所の語り部さんが言うには、トレッキングシューズに藁縄を1本靴底から足の甲にかけて結んでおくと、だいぶ滑りにくくなるそうです。

 

閑話休題、江戸時代に熊野古道は熊野街道という名前で整備されました。

道幅も大きくし、一里塚が置かれ、宿場町や関所、伝馬所が置かれました。

世界遺産になっている長尾関はその関所ですし、継桜王子の近くには伝馬所跡も残っています。