安土桃山時代の熊野古道

一遍上人は鎌倉時代の人です。

熊野古道で修行しているときに熊野権現のお告げを聞き、念仏札を配り、念仏踊りを始め遊行(各地を布教すること)を始めます。

 

みんなで念仏を唱えれば救われると説いたこの時宗の教えは、庶民に受け入れやすかったと思います。この時宗は一向宗などと似ているし、同一視されていた時もあったようです。

 

 戦国時代、この紀伊半島では、雑賀衆と同盟を結んだ湯河氏がこの一向宗・時宗の勢力の代表だったのだと思います。京都に上洛したばかりの織田信長を苦しめた「石山合戦」の一つ、紀州征伐だと思います。信長はこの一揆勢に対する処罰が厳しかったです。比叡山の焼討などもそうですが、「魔王」のイメージはこの仏教徒に対する苛烈さだったのでしょう。

 

ここから安土桃山に入っていきます。

 私は、なぜこの安土桃山時代に急に商人経済が発達したのかというと、まずはポルトガルなどの貿易ですが、戦国時代に様々な技術が発達したことも大きな原因だと思います。

戦国時代大名たちは全国で覇を競い合いましたが、最終的に勝ったのは尾張、三河などの東海地域の勢力でした。

温暖な気候と濃尾平野という肥沃な穀倉地帯を持ち、大軍を擁して箱根以東の勢力を抑えながら近畿地方を征伐していきます。

東海地域に比べて近畿地方は大きな穀倉地帯も、そして大軍を擁する平地もなかったのだと思います。

 

戦国時代の合戦は勝敗が各個人の勇猛さより、城攻め、平攻めなどの戦略の部分が大きなウエイトを占める時代になったと思います。それは鉄砲などの火器の存在と、兵糧攻めや水攻めなど、土木工事を大きく発達させる時代でもありました。

 

こうなると勢力の勝敗を決定するのは、大軍とその装備をそろえられる財力と築城を含む土木工事の技術だと思います。

 

熊野に来てとても思うのが、それぞれの集落の分断です。

大きな平野を持たない紀伊半島では、集落同士の日常的な行き来が少なく、大きなまとまった集落になりづらいです。広大な平野があれば、そこを守る政治的軍事的組織もその広大さに合わせて結集されますが、紀伊半島ではそれぞれが小さな防御集団にしかならず、各個人の勇猛さはあっても大軍を率いる大きな勢力になりえなかったのだと思います。

 

戦国武将の有名な所はみんな穀倉地帯を持っています。関東平野、越後平野、仙台平野・・・

紀伊半島、熊野の地域は特に平地が少ないので主な農業はみかんや梅などの果樹栽培ですし、

斜面を開拓した棚田というのもよく見受けられます。

皮肉なことに地名に「田」が付くのが多いこともその原因なのではないかと思ってます。

(富田、田並、田本、田原、田辺、有田、井田、堅田、新田など)

 

そのあと権力を握る豊臣秀吉になるとちょっと仏教に対する融和が見られます。

信長が厳しく弾圧したギャップもあるでしょう。熊野本宮大社を大斎原で再建したのは秀吉だそうです。恩を感じたのか湯河氏は関ヶ原の戦いで西軍に加担し、没落していきます。