応仁の乱以降、政情はどんどん不安定化していきます。
人々は世の中を憂い、救いを求めてきますが、それぞれの国の行き来が難しくなっていきます。
熊野三山も、それぞれ独自の方法で生き残りをかけていたんだと思います。
戦国時代の熊野と言えば熊野水軍だと思います。当時熊野別当だった有馬氏を追い落として新宮で勢力を伸ばしていたのは堀内氏で、熊野水軍を率いてました。熊野詣の時に熊野川の川渡し賃料が新宮の主な収益になっていたことが関係しているのではないかと思います。
熊野速玉大社の例大祭は御船祭が行われます。速玉大社では年間を通じて宮大工の神事だったり新嘗祭などもありますが、例大祭は舟が主役のようです。これは、熊野水軍を始め主な政治経済活動が水利を利用したものが多かったからだと思います。
熊野本宮大社には一遍上人月例祭(毎月23日)があります。
本宮大社にとって一遍上人の影響がどれだけ大きかったかがわかります。
また、湯登神事や宮渡神事もやはり熊野巡礼のような祭典です。
しかし、戦乱の世の中になってくると、庶民は巡礼できなくなりました。山伏や比丘尼も越境することが危険なため、布教活動を続けていた場所に留まらざるを得なかったと思います。
ある集落では熊野詣が難しくなった代わりに地元で熊野神社を勧進し、山伏や比丘尼はそこに在住したんだと思います。また、ある者は生きていくために集落で仕事を始めたり、比丘尼などは春を売ることもあったようです。近隣でも例えば闘鶏神社に熊野三所権現があって、熊野詣の代わりをはたしていたり、白浜にも同様の神社があります。
