熊野が愛する大塔宮護良親王

大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)というのは、鎌倉時代末期の後醍醐天皇の皇子です。

武芸を好んだ武将だったそうですが、父後醍醐天皇の討幕運動に参加して幕府軍に追われ熊野に逃れてきます。

しかし、当時の熊野別当は幕府側の人だったので手前の十津川で潜伏していました。

その時幕府側の追手が来て囚われそうになるのですが、庇護していた竹原八郎と後から来た野長瀬六郎、七郎兄弟によって幕府軍は撃退されます。

 

この野長瀬家一族の墓があるのが中辺路町の近露です。

先日この野長瀬家の家がゲストハウスになりました。

ここが中々ややこしい所なんですが、野長瀬家は鎌倉期に平家を掃討し熊野古道を警備する、幕府側の勢力として近露や十津川へ移住してきたはずなんです。

奈良県の十津川にも野長瀬一族がいて、大塔村(今は五條市)に改組される前の江戸時代は野長瀬組という地域でした。現在も十津川村には野長瀬さんが住んでいるようです。

 

その野長瀬氏が倒幕運動を起こした護良親王を助けるというのが興味深いです。

 

その後、護良親王は吉野を拠点として紀南の各勢力を味方につけるべく勢力圏づくりを行います。

 

たぶんその時の逸話だと思うんですが、護良親王は山伏姿に変装しながら各地を回っていた時、田辺市大塔地区の鮎川という集落では、鎌倉幕府から山伏に便宜を図ってはならないと聞いていたため、山伏に扮した護良親王に餅をふるまわなかったそうです。

 

あとでその山伏が護良親王だったと知り、集落にあった餅をすべて川に捨ててしまったそうです。さらにその集落では600年の間、正月には餅を食べない「餅をつかない里」になったそうです。

 

そのことが昭和10年の新聞で報じられているそうです。600年、正月に餅をつかなかった里の代表が、護良親王600年の大覚寺の法要で600個の餅を奉納し、護良親王に詫びた後、正月に餅を搗くようになったことが掲載され、当時話題になったみたいです。

 

紀南の人はこの鮎川の集落の人だけでなく、護良親王の人気があったのだと思います。

紀南だけでなく、雑賀衆(粉河寺周辺の紀の川市や紀北地域の勢力)なども味方になり、千早城楠木正成の鎌倉倒幕の挙兵に呼応して護良親王が吉野で挙兵します。

 

鎌倉幕府を倒幕した護良親王は父後醍醐天皇からはクーデターの疑いをかけられ、鎌倉に流されて非業の死を遂げます。

 

近露集落のほぼ中央に位置する野長瀬一族の墓は護良親王とその後の南朝を支援した一族として歴史が残っていますし、田辺市の鮎川地区は元々和歌山県西牟婁郡大塔村でした。

今は五條市になっている奈良県の大塔村など、地名に大塔の文字を入れるくらい、大塔宮護良親王は近世まで熊野の諸地域で慕われていた武将だったのです。