いろいろ資料を見ているのですが、この室町時代の熊野古道というのはどうもわかりづらいです。
廃れていったという記事も見ますし、中世の「蟻の熊野詣」とひとくくりにして室町期もたくさんの巡礼者がいたという記事も見受けます。
これは、特に庶民の熊野古道の様子が分かりにくいという面があります。
以前、平安時代の熊野古道は上皇・法皇による熊野御幸だったと書きましたが、先達という山伏は熊野御幸以外にも当然熊野三山へ参拝していたでしょうし、熊野で暮らしていた人も日常行き来していたと思います。ついでと言ってはおかしいですが、大社にも参拝していたと思います。
これは現在の熊野古道でも同じで、巡礼する人を正確に把握することは、同じく巡礼路である四国のお遍路も、熊野古道と同じく世界遺産のサンティアゴ巡礼でも正確には把握できていないようです。
熊野古道は時代によってさまざまな顔を見せます。私はそれを「外からの目線」で地元に住みながら分析してみようと思っています。
もともと自然崇拝だった熊野の寺社が、熊野御幸によって大きな政治的な意味を持ち、荘園を持つなど大きな財政基盤によって発展してきました。
しかし、規模が大きくなることで人がそこで生計を立てることになります。
その人たちは三山のために働いていて、いわば貢献している人々です。
聖地、蘇りの地。聖職者が住み、参詣するには精進潔斎しなければならない。
そんな熊野が生活のために、などという生臭い話をすることは難しいのだと思います。
最初天皇家に愛された熊野は平清盛など政治の争いに巻き込まれます。
生きていくために平家を(神託を受けて)裏切り、打倒に協力したにも関わらず鎌倉幕府は古道を警備して反抗する勢力を抑えながら荘園という財政s基盤を地頭に奪われてしまいます。
源平の争いに巻き込まれた庶民は疲弊し、熊野に救いを求めました。日宋貿易を通じて新しい仏教の流れがもたらされ、修行した親鸞、日蓮、一遍などが浄土信仰を広めたことと、熊野が(日本における)浄土だと結びついたことによって「蟻の熊野詣」が起こったのだと考えています。
鎌倉時代に隆盛を究めた熊野古道ですが、鎌倉末期になると庶民が通ることで夜盗や山賊の類も増えていたようです。また、平家の落人もいましたし、集落同士の争いも多かったのだと思います。そんな中、大塔宮護良親王が熊野を巡り「今までの勢力争いはだめだ、後醍醐天皇が中心となった平和な世の中を作るぞ!」と号令をかけて回ったのだと思います。
これに熊野は賛同したのでしょう。果たして鎌倉幕府は倒され、「建武の親政」という再び天皇を中心とした政治改革が起こります。
しかし、あまりにも力と人気を得た護良親王は、父後醍醐天皇からも謀反の疑いをかけられ失脚してしまいます。そして大きな天皇を支援する勢力を失った京都の政権は足利尊氏によってまた武家政権に奪還されてしまうのです。
さて、本題からだいぶ逸れてしまいましたが、その時熊野は徐々に衰退していったのだと思います。
理由は先の政情不安で争いが絶えない中、人気の少ない難所である熊野をお参りすることはとても危険が伴いました。それでも庶民は救いを求め、命を投げ出して蘇りの地熊野へ向かった人もいます。しかし段々少なくなっていったと思います。
特に伊勢路方面の争いごとが厳しかったのではないでしょうか。伊勢神宮周辺では山田合戦というのがあり、神宮の内宮、外宮のお膝元である宇治、山田で抗争がありました。
いずれにしろ、護良親王を支援して以降の熊野は歴史の表舞台からはちょっと遠ざかったようです。
