鎌倉時代というと、まず思い浮かぶのは武士の世の中になったという事ではないでしょうか。
源平合戦を経て、源氏側が勝利し、源頼朝が鎌倉に幕府を建てて武家政権が誕生した。
(平清盛も武家政権なんですが)初めて武士による独立政権ができたという事でしょうか。
熊野詣は鎌倉幕府ができた後も後鳥羽上皇によって続きます。
しかし、承久の乱によって平安京の政権と鎌倉幕府との形勢が逆転することにより、荘園を治めていたのが公家や寺社仏閣ではなく、全国に配置された地頭によって治められることになります。
これにより財政基盤を失った公家、寺社勢力は力を失います。
熊野三山も紀伊国の荘園を地頭によって治められてしまいます。また、熊野古道は政治の舞台となっていただけでなく、まだ平家側の勢力もいたようです。現在も集落の中では平家の落人が作ったといわれる集落があります。
鎌倉幕府も熊野三山が平家の勢力にならないよう監視されていたようで、熊野古道の要所には源氏側の武家が(主に信州からのようです)移住し、警備に当たるだけでなく、平家の残党を掃討していたのだと思います。中辺路で言うと、野長瀬家(近露王子)とか湯川家(湯川王子)などがそうだったようです。
源平の合戦、そしてその後の動乱の時代、「鎌倉のどのの13人」でも描かれていましたが、数多くの闘争、そして裏切りにより、人々の心は乱れ切っていました。寺社勢力も僧兵など僧侶が人を殺す時代。そして公家と結び、荘園を支配して権力を握っていた宗教界は腐敗していたんだと思います。
平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、西行や親鸞、日蓮など新しい仏教の時代が訪れます。
熊野本宮大社では現在でも毎日23日は一遍上人月例祭が行われます。
一遍上人はその鎌倉時代の中期の人。時宗の開祖と呼ばれています。
一遍上人が時宗を開くときに「熊野権現のお告げ」を聞くことで念仏札を配るようになりました。
空也の影響を受けた一遍は念仏札を配りながら踊念仏を広めたようです。
お告げでは「信不信を問わず、浄不浄を嫌わず配りなさい」とのこと。この信仰には身分も何も関係なく全てを受け入れる思想でした。
この念仏踊りが現在の盆踊りや歌舞伎にも影響を与えたぐらい、各地で念仏踊りがムーブメントになったようです。
この事から、平安時代の精進潔斎して様々な作法にのっとり熊野御幸をしていた熊野御幸とは違う、庶民が救済を求めて熊野へ参拝する熊野詣が始まります。
