平安末期、平清盛は平氏の台頭に熊野詣を利用した

平安時代は荘園が財政基盤となって藤原氏を始め貴族が力を持った時代です。熊野詣も、熊野三山に紀伊国の荘園を寄進したことで大きな財政基盤となりました。

熊野三山だけでなく、多くの寺社が荘園を財政基盤に興隆していきます。

 

その結果、興福寺や延暦寺なども独自の勢力を持つようになります。

そして、その荘園を防衛するためにそれぞれが僧兵など勢力を持ち、時には中央政権に強訴という形で影響を持つようになりました。

 

そして、多くの上皇が出家することに関与し、また皇統が出家する正統性を補完する意味で、

日本独自の神様は仏教の仏様が形を変えて現れた物だという信仰に繋がるんだと思います。

それが「本地垂迹思想」です。熊野三山が神社でありながらこの仏教と深いかかわりがあるのも、

この本地垂迹の考え方に大きく影響されていると思います。

 

しかし、当時の仏教勢力にはそれぞれの宗派であったり結びついている貴族(藤原・源氏・平氏など)によって立場が異なり、争いが絶えませんでした。

 

その中で荘園を持ちながら新しい財政基盤を背景に台頭したのが平忠盛・清盛親子の伊勢平氏です。その財政基盤とは日宋貿易でした。

 

平清盛は熊野詣においても中辺路だけでなく、伊勢路も案内しました。

当時の後白河法皇の歌が伊勢路に遺っています。

 

そして天皇の後継問題に端を発した保元の乱、平治の乱をきっかけとして平清盛は太政大臣まで上り詰めます。この乱の時、熊野三山は平氏側として乱に参加しています。

平氏が後白河法皇の先達として熊野御幸に関与していた事が大きかったのではないかと思います。