この後、鳥羽法皇や後白河法皇が熊野御幸をするんですが、
基本的に、この平安時代の熊野古道というのは「天皇(実際には天皇を譲位した上皇または法皇、女院)による巡礼」でした。
宇多法皇は特に熊野という事ではなく、仏教に関わる霊場をいろいろ行く中での一つが熊野三山。
花山法皇は政敵に騙されたのかはともかく、熊野三山に出向き、様々な和歌を遺し、そして那智山で千日修行をした、と熊野に傾倒しています。
いずれにせよ、熊野御幸としては(その後の御幸に比べて)きわめて質素な共を連れての旅だったと想像できます。
しかし、白河法皇の熊野御幸は、熊野三検校という専門職を新たに就け、紀伊国の荘園を熊野三山に寄進しているので、御幸の規模も大きかったと思います。後白河法皇の時には、輿の担ぎ手が50人以上いたそうです。
同行者を含めると100人以上の規模だったのではないでしょうか。
案内する人も大変だったでしょうが、受け入れる集落も小さな集落だったと想像します。
御幸といっても年に1~2回の数百人の行列のためだけに収容する建物が用意されたとは考えづらく、要人は仮屋があったものの、お供の人間はせいぜい陣幕を張った程度の中で野宿したのではないかと思います。
まだまだ庶民が気軽に巡礼することができるようなインフラ(宿、ガイドなど)はなかったと思います。
しかし、これほどの規模の人数が何か月もかけて御幸することで、熊野御幸というものが認知されるきっかけになりました。
熊野三山にとってもこの熊野御幸を受け入れることで大きな荘園を寄進してくれることに繋がり、
大きな財政基盤になったようです。この熊野御幸の中で、平安京から熊野まで、お供の人間を差配し、先達としてガイドし、獣や山賊に対して防衛するなど御幸の全般を取り仕切るのが三検校の役割だったようです。
それとは別に、熊野三山を現地で取り仕切り、日ごろの荘園を含む管理維持、祭事、祈祷を執り行うのが熊野別当という役割分担だったようです。
現在の旅行で言うところの、旅行代理店と添乗員が熊野三検校で、現地の語り部と宿泊施設が熊野別当というイメージでしょうか。
